蓮とのご縁

時は鎌倉時代、今からおよそ760年前の正嘉元年(1257年)、京都から布教活動で立ち寄られた、浄土宗の第三祖「良忠上人」の有り難い御説法を聞いた、当時の領主石橋丹後守(上総介広常の孫)石橋光宗が感銘を受け、里人にお寺を建立するよう伝えたと言われています。

蓮の花の咲き乱れる美しい池のほとりにある中根山で、御説法をしていた良忠上人は「まさに極楽のお浄土のようだ。」とおっしゃられ、建立したお寺を『中根山光宗院極樂寺』(なかねざんこうそういんごくらくじ)と称されました。

尊き蓮は極楽浄土の象徴。まさにこの地での開山は、阿弥陀様のお導きのようなお話です。

こうして極樂寺は、蓮との深いご縁のもと開山されました。

その後この地が「蓮沼」と称されることになり、浄土宗との由縁もまた、より一層深いものになっていきます。

選択伝弘決疑鈔(せんちゃくでんぐけつぎしょう)を記した良忠上人の掛け軸

時代の中の仏教

平安末期のものではないかと言われている観音菩薩像
鋳物の伏せ鐘
江戸時代に浅草の職人により作られ当山に寄進されました

歴史の中で、幾度となく戦いが繰り広げられてきました。

開山から70年余り、時代は鎌倉から室町へと移り変わり、戦国の世をむかえました。戦乱の中、武将は戦への恐怖心の払拭を阿弥陀様に祈り、殺生の罪を懺悔しました。また、戦により厳しい暮らしを強いられた民衆は、平穏と無事を祈り、阿弥陀様の救いにすがりました。

「南無阿弥陀仏」のお念仏を称える者全てを救ってくださるという、阿弥陀様の分け隔てのないご慈悲が、混乱の世に生きる人々の、心のよりどころだったのでしょう。

極樂寺もまた、阿弥陀様の救いを頼りに、人々の心の支えとなり、浄土の教えを説きひろめてきました。

長きにわたり続いた武家政権も江戸幕府を最後に、時代は近代日本へと歩みはじめました。

明治維新により、大きな時代の変化を迎え、極樂寺のあるこの地も、廃藩置県によって「蓮沼村」と称されることになりました。
様々な宗派がある中で、蓮沼村の住民の九割が浄土宗に属し、お念仏を称えて下さるという、浄土一円の地であったことからも、極楽浄土の象徴である蓮が地名になったことは、人々にとってこの上ない喜びだったに違いありません。

蓮沼という地名にも尊さを感じ、極樂寺の蓮池が長い歴史を語り継いでくれているようであります。

極樂寺の礎

戦後復興と共に、現在の極樂寺の礎が築かれました。

四十九代住職伊藤寛成は、海軍から帰還し仏門に入りました。混沌とした時代の中、雨漏りのする藁葺き屋根だった極樂寺の再建から始まりました。

檀信徒の方々のご協力のもと、本堂の改修、客殿の建築、そして境内地に保育所を新設するなど、四十九代住職伊藤寛成は、極樂寺の復興再建に邁進されました。

五十代住職伊藤慶成は、年月により色あせてしまった阿弥陀如来像の修復を手がけられました。約100キロもの仏像を京都の職人の元に預け、1年6ヶ月を要し尊くも荘厳輝く阿弥陀如来像が戻ってまいりました。また、本山布教資格を習得し、布教活動の充実をはかりました。

法然上人の御遺跡である「二十五霊場巡礼」など、檀信徒方々へより一層の布教に尽力されました。平成15年には、念願の「五重相伝会(ごじゅうそうでんえ)」という、浄土宗の教えを5つの順序にのっとって伝える法会を開廷しました。五十代住職伊藤慶成は、お念仏のお教えを広くみなさまにお伝えくださいました。

そして令和の時代となり、伊藤良成が五十一代目を継がせていただくことになりました。先代方々の積み上げてこられた重みを実感しつつ、護寺発展を目指し精進してまいります。

伊藤寛成上人が唱導師として、法要を任され地元のお檀家様はじめ大勢のご縁ある方々にご参列いただきました(昭和51年 増上寺にて)
藁葺き屋根の本堂(昭和20年頃)
蓮池のハス(昭和55年頃)

お気軽にお問い合わせください。0475-86-2036

お問い合わせ